浪人時代の話

久々に文字でも書こうと思い立ってこのブログを開いた。初めてここに投稿した記事を見ると日付が2018-02-23とある。二浪の決まったあの日から5年を超える月日が流れているらしい。

結局私は大学には行けず、高卒の日雇い労働者としてグズグズと生を延長し続けている。警備員、工場労働者を経て、今は東京で住み込みの清掃員として働いている。

浪人とフリーターとの境界は実に曖昧で、本業は緩やかなグラデーションを描きながら徐々に受験勉強から労働へ傾斜してゆく。大学への憧憬も次第に霞んで消失し、ただ眼前にある労働に耐えて生き続けることが私のファーストプライオリティにすり替わる。

つまらない大人になったとも言えるが、ある意味で長い夢から覚めたような、重い肩の荷が降りたような、そんな気がしている。

目標に向かって進んでいる実感がまるでなく、ただひたすらに精神と思考のリソースを浪費しているあの感覚。病的な執着から逃れられず泥沼へ堕ちてゆくように、次第にもがく気力さえ失ってしまうあの感覚。

これらからの離脱には相当な時間と気力を要したが、今となってはこの記憶もまた、文学的に美化された物語として私の中に深く刻まれている。あの時急激に変質した私の人格や思想は、ある意味で今の私自身を定義するもので、浪人時代があったから今の自分がいると言っても過言ではない。

 

筆致から察せられるかもしれないが、私は悲観主義とナルシズムの起伏の中で精神を乱高下させて自己の物語を紡いでいる。

虚無や絶望は常に物語を形成する糧であり、私自身はいつだってこれらと対峙するプロタゴニストである。

苦しみの最中で真の絶望を語り、私はそれを自己劇化して乗り越えてゆく。現実は何一つ変わらないが、解釈の変更によって全てが物語へと変容する。

そうしてここまで生き延びてきて、これからもきっと私はこの自己陶酔に満ちた生き様を極めてゆくのだろう。

あの浪人の日々があったから、そう思える。