勉強から逃げ続けた二浪がセンター直前になって思うことなど

久しぶりに記事を書く。支離滅裂なことを書いているかもしれないのでご注意を。

 

 

 

ブログの更新が途絶えてからの数カ月間も、私は自堕落な生活を続けていた。

大学受験を半ば諦めたかのように勉強から遠ざかり、突発的に大学への未練を想い出すとおもむろに参考書を眺め、気力が減衰するとまた勉強から遠ざかるという、そんなサイクルの中に居た。

 

あと数日で人生三度目のセンター試験である。はたしてどれくらいの点数が取れるだろうか。

 

全く分からない。

人は不勉強の極地に立つと、自分の実力でさえ見当がつかなくなるんだなと思った。

どれほど英単語を忘却しているだろうか。どれほど歴史の用語を忘却しているだろうか。数学の基本的な演算は出来るのだろうか。

全く分からない。

 

思い返せば、現役時代、一浪時代、そして今、ずっと同じ過ちを繰り返している。「いつか自分は結果を出すはずだ」という在りもしない可能性に夢を見続けている。当たりの無い宝くじを延々と買い続けているようである。

 

浪人期間を経て人格も価値観も変わり、随分と卑屈になったと思う。自分は駄目な人間なのだと、思いたくないのに思ってしまう。自己嫌悪を繰り返し、知能も体力も衰え、人脈も失くしてしまった。客観的に見て何一つ良いことはなかった。

 

だけど私は浪人が出来て幸せだった。

「浪人すれば大学に行けるかもしれない」という無根拠で何の実益もない勘違いが、私にとってはこの上ない贅沢だった。

極論を言うと、この感覚こそが死なずに居られる理由なのだ。テストで点が取れなくても、親に家を追い出されて働かざるを得ない状況になっても、いつかどうにかして私は大学に行くのだろうという漠然とした意識が、心の深層に流れている。理屈では無理だと分かっていても、心のどこかで「未来の自分が勉強を頑張ってくれるのではないか」と妄信している。

このようなうちは「つらい」だとか「死にたい」だとか言いつつも、ギリギリ生きていられると思う。他人から見れば狂気の沙汰だろうが、本当にそう思うのである。

(もちろん、このような感覚こそ、私が多浪になる主な理由であることは言うまでもない)

 

これまでの行いを後悔していないと言うと嘘になるが、私は自分の限界までやってきたと思っている。「努力出来る限界」がこの様だった。もうそれを受け入れるしかないのだ。受験結果を真摯に受け入れる覚悟を持って、何の言い訳もせず、センター試験に臨みたいと思う。